Sleep or Die

  I'm in 13-dimensional sleepless forest.

あの「イイネ!」の真意って何?
2012年05月01日(Tue)
いや、別に自分が被害を被って憤慨しているとか言うわけでは全くないですw

Facebookを見てると至る所で遭遇するのでなんとなく気になっていただけであって、別段物申したいという次元でもなく。

それは何かと言いますと、よく不幸な出来事に関する書き込みに対してついている「イイネ!」の真意は何なのかということです。

「え、不幸なのにイイネ!ってどういうこと!?」という単純な疑問なわけです。

「昨日からマジ体調悪くて、熱計ったら38度だった。。」 「イイネ!」×5
「頑張って勉強したのに試験落ちたよ。。」 「イイネ!」×3
「昨日彼氏と別れました。。最悪。。」 「イイネ!」×10

そもそもFacebookに「ヤダネ!」ボタンがないのがいけないわけですが、きっとここで「イイネ!」とつけてる人は「頑張って!」とか「残念だったね。。」という意味を込めてるんでしょうね。もしくは、「この人がこんな不幸な目に遭ってるのをみんな知って痛みを感じてほしい」という意味で拡散しているのかもしれません。

でも絶対いると思うんですよね。このグレーな「イイネ!」に乗じて「ざまあみろwwww m9(^Д^)プギャーwwwww」という本心を込めてる人がw 普段言えない人に対しても、この「イイネ!」を使えば、密かに復讐ができるという。

「イイネ」だけじゃなくて、「ざまあみろwwww m9(^Д^)プギャーwwwww」ボタンもつければシンプルでわかりやすいと思うのですが、これは提案しても文字数が多すぎるのでザッカーバーグに却下されることでしょう。

まるでおばあさんの格好に化けて赤ずきんに近づくオオカミですね。実はオオカミなのに、優しいおばあさんに見える。泣けます。

いずれにせよ真意がなんなのかは人やシチュエーションによって全く違うと思うので答えを導きだす事はできませんが、少なくともユーザにこんな疑問を感じさせてしまう「イイネ!」ボタンという機能は、もっとわかりやすいように見直しをしたほうがいいんじゃないかと思います。はい。
何度見ても納得できない!錯覚アートまとめ
2012年03月20日(Tue)
▼AとBの色は同じ
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▼茶色とオレンジに見えるブロックの色は同じ
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▼黄緑と青に見える線の色は同じ
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▼静止画なのにうねって見える
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▼静止画なのにうねって見える2
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▼中央の黒い点を見ながら視点の距離を変えると?
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▼あなたには左回りに見える?それとも右回り?
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※ずっと見ていると、不意に反対周りになります。人によっては左回りにしか見えなかったり右回りにしか見えなかったりという不思議。

▼黒い+に焦点を合わせると緑色が出現
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▼3本とも同じ長さです
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▼3人とも同じ身長です
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▼白黒の玉は同じ大きさです
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▼いつまで経っても近づかない
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▼横線は全て直線です
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▼単なる画像の重ね合わせなのに飛び出して見える
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ライアーゲームって結局「フハハハ!引っかかったな馬鹿め!」「なんだと!?」の繰り返しですよね
2012年03月17日(Sat)
ライアーゲーム

昨日知ったのですが映画やるみたいですね(もうやってるのか?)。

主演が戸田恵梨香から多部未華子に変わってるのが違和感ありまくりです。戸田恵梨香は、なんか問題でも起こしたんでしょうか。

作品をよく知らない人に軽く説明しますと、ライアーゲームとは大金をかけただまし合い大会に強制参加させられた人たちの駆け引きや人間模様を描いた物語です。もともとは漫画だったのですが、近年ドラマ化および映画化されて人気を博しております。テレビCMも頻繁にやっているので、目にしたことのある人も多いのではないでしょうか。

知的な争いは面白いです。作者は相当頭良いんでしょうね。思わずうなってしまいます。ライアーゲームが好きって人の話は結構聞きますし、しょっちゅうドラマや映画をやっているところを見ると世の人気はいまだに高いのでしょう。僕もファンの一人としてごく普通に漫画やドラマを楽しんでいます。


はい、とまあここまで一般的なことを書いてきましたが、ではこのエントリーで何が言いたいのかといいますと、題名の通りです。

昨日の夜中のことでした。何気なくつけたテレビで再放送をやっていたので、ついつい見入ってしまいました。そこで気づいたのがどうにも冷めてしまう事実でした。

それは、「この物語ってだます側とだまされる側をただ交互にやってるだけじゃん」ということです。特に、対決者のレベルが上がれば上がるほどに。笑えるほどワンパターンです。

A「ハッハッハ!だまされましたね!実はあのとき罠をしかけていたのですが、あなたはまんまとひっかかったわけです」
B「なんだと!そんな馬鹿な!私の完璧な作戦が..」
A「私の勝ちです!」

B「……本当にそう思うか?」
A「何!?」
B「実はその前の前に罠をはっていたのだが、お前はそれを知らずに今私の術中にハマっている!」
A「まさか!そんなわけが!」
B「お前の負けだ!愚か者め」
A「グググ…この私がだまされるなど...」

A「とでも言うと思ったか?」
B「どういう意味だ!?」
A「お前がそう来ることなどお見通しだ。前の前の前に私のとったあの行動によって、実は私の勝ちは決定していたのだよ」
B「嘘だ!そんなはずは!」
A「どうやら真の勝者は私のようだな。ハッハッハ!!!」
B「うわーーー!!!」

B「…さて、お前はまだ負けが確定していることに気づいていないようだな」
A「なに!?」



以下無限ループ。

ゲームのルールやだまし合いの手口は見てて感心させられますが、あまりにもどんでん返しがありすぎるってのも疲れるだけだなぁと思います。面白いのと同時に感じる大いなる疲労感の源は何だろうと常々思っていたのですが、ようやく秘密を暴けてスッキリした気分になりました。

うちの近所にあるラーメン屋が迷走しています
2012年02月26日(Sun)
自宅から徒歩3分のところにあるラーメン屋が迷走を見せています。

このラーメン屋、大変美味しいので2週間に一度ぐらい行くのですが、3ヶ月に一度程度の頻度でよくわからない施策をうつのです。

最初は辛い麺でした。和風の豚骨スープが売りなのに、急に「辛麺始めました」との告知で、辛い麺をプッシュしだしたのです。正直味はイケてなかったので残念でした。

まあそのぐらいならよくあるメニュー追加か、と思っていましたが、今度は「食べ放題始めました」との見慣れないキャンペーンが始まったのです。500円払うだけで、麺、ご飯、餃子がおかわり自由という、どう考えても採算に合わなそうな改修なのです。

肝心の反響ですが、始まって半年以上経っているにも関わらず、僕が行くときにこの食べ放題メニューが注文されているのは見たことがないですね。

最近最も衝撃を受けた変更は、店名と看板の変更です。本場博多っぽい名前と看板だったのですが、急にスタイリッシュな名前と恵比寿での出店を狙っているかのようなオシャレな看板に変わったのです。

一瞬店が潰れたのかと思い中をのぞいてみましたが、内装と店主は何も変わらず、全くもって意図のわからないリニューアルになっておりました。

こういう謎の迷走を見せるのは人が入らない不味いラーメン屋の常套手段だと思うのですが、そこそこ人が入ってる美味しいラーメン屋がやってしまうと、なんだか非常に残念な感じがするんですよね。しっかりしてるんだから、もっとどっしりと構えてくれよと。

やっぱりイメージってものは大事なわけで、こういう不安感を客に与えてしまう店ってのは将来一流店としてやっていくことは難しいのかなと思います。なんでもそうですけど、良くない方向にガラにもないことをやりすぎると、最終的にはマイナスに大きく作用してしまうことって少なくないですよね。

もちろん変化やギャップは大事だと思いますが、こういう事例を見てしまうと、今までの方向性とかけ離れた行動に挑戦する危うさを実感してしまいます。

天才と奇人は紙一重である
2012年02月18日(Sat)
かの有名なゴッホは自らの耳を切り落とした。モーツァルトは糞尿の話に終始し、アインシュタインは食事を灰皿に盛りつけることがあった。

当時の世間は天才の奇行をどのように見ていたのだろうか。すべからく好奇、偏見の目を向けていたに違いない。後に天才と認められるまで、奇人としか思われていなかった偉人は少なくない。

駅のホームで「10年後に地球に宇宙人が襲来する!僕の研究に間違いはない!」と叫ぶ若者を見た全ての人は、彼を変質者と見なし、その話に耳を傾けることなどしないだろう。見たくない、聞きたくない、関わりたくない。自らの人生との交わりを避けることに努めるのは至極当然の行動とも言える。

しかし、もしかすると彼は後の世に名を轟かす大天才かもしれない。

10年後、未知の生命体が地球に来訪し、世界は変わる。地球は異界の住人との共存の道にもがき、一丸となってヒトという種の存続に奔走する。そのとき、人類の代表として最前線に立ち、世界から尊敬の眼差しを受ける偉人が、あの日駅で見た変質者だと気づく者はいない。

人を正しく見る、理解することは大変難しいことである。

映画のジャイアンは何故良いヤツなのか
2012年02月11日(Sat)
「のび太の野郎!ギタギタにしてやる!!」

日常のジャイアンは、ガキ大将の域を超えた危険極まりないイジメっ子である。「俺のものは俺のもの、お前のものも俺のもの」。これはあまりにも有名な格言であり、その理不尽さには呆れを通り越して清々しさすら感じられる。傍若無人な振る舞いは、悪役のステレオタイプとしていつの時代も子供達の心をとらえて放さない。

そんな暴君ジャイアンも映画の世界では全く違う顔をみせる。立ちはだかる巨大な悪と戦うために率先して危険な役を買って出るだけでなく、仲間であるのび太が見せる勇気ある行動を全力でサポートし、励まし、信頼する。それは安心や優しさ、包容力といった、普段のジャイアンからは想像もつかない慈愛に満ちた姿である。いつもは極悪なのに、いざとなったら仲間思い。まさにギャップ萌え。全国の女子を虜にすること間違いなしである。ジャイアン△。

さて、そんな話題を呼ぶ男ジャイアン様だが、はたして彼の二面性は一体なぜ生まれているのだろうか。少し考えてみるだけでも実に様々な理由が思い浮かぶ。

まずは、極限状態に陥って人間の本性が出ている可能性だ。本当はいいヤツなのだが、平和な世の中ではそのような本性が顔を出す必要性はなく、小学生ゆえのむき出しの自己や力での支配欲が素のままで表れてしまう。その結果、あのような自己中心的な行動を繰り返す。暴力を振るったところで、せいぜい親や先生に怒られる程度の変化しか起こらない。

しかし、地球や宇宙の危機となれば話は別だ。危機感マックスな状況で、ついに本性が幼稚な自我を上回る。問題の本質や重要性を理解し、本能のおもむくままにぶちあたっていく。猪突猛進な姿勢は変わることないが、誰かのために動くその様は視聴者の感動や涙を誘う。夢のある話である。

もう少し汚い理由を考えてみよう。制作者としては普段からジャイアンを使って子供達を怖がらせている。子供達がそのままジャイアンの姿勢を受け入れてしまったらどうだろうか。きっとジャイアニズムを体現した自己中心的な大人を生み出してしまう。それではドラえもんという作品で子供達を育てることはできない。

そのため、「ジャイアンは本当は良いヤツなんだ。どんないじめっ子だって、いざとなったら仲間のために動く人間に変わるものなんだ。」というメッセージを映画で伝え、子供達に刷り込まれたジャイアニズム思想をぬぐい去る。結果としてドラえもんの教育的、道徳的価値は向上し、制作者は子供達にもその親にも自信を持って作品を提供することができるようになる。

もっと汚い話を考えてみる。単に作品の盛り上がりを作るためかもしれない。感動巨編にするためには感動的エピソードが必要だ。そのためには、感動を呼ぶキャラクターが登場しなければならない。普段から良いヤツであるドラえもんやしずかちゃんにその役を演じさせるより、悪であるジャイアンにその役を演じさせる方が視聴者の感動をよぶことができる。「いつもあんなに悪いジャイアンが、こんなに素晴らしい行動をしている!」そのギャップは喝采を巻き起こし、視聴者は涙する。作品として大成功である。

または、作品における悪のレベル調整ということもありえる。テレビや漫画でのジャイアンは最上級の悪であるが、映画の世界で出てくる敵はもっと邪悪で強大である。つまり映画の敵とジャイアンでは悪のレベルにおいて次元の違う差があり、ジャイアン程度では全くもって悪役はつとまらないのだ。このままではジャイアンは霞んでしまう。それを避けるためには、別の役割を割り振らなくてはならない。

そもそもジャイアンが悪いままだと話が一つにまとまらず、結果として映画をダメにしてしまう。制作者の立場で考えれば、ジャイアンの良化は至極当然のシンプルな発想なのかもしれない。

子供のためを思ってという理由から大人の事情まで。様々な理由はあるだろうが、本当のところはわからない。しかし、たとえどんな理由であったとしても、ジャイアンというキャラクターの強烈な個性が色あせることはない。日常のジャイアンは傲慢かつ支配的で周りから恐れられるヤツだし、映画のジャイアンは情熱的で誰からも信頼される心強いヤツなのだ。

こんな下らない疑問を長文で書いてしまうほど、彼には語るべきところが多くある。

剛田武、11歳。全くもって魅力的な男である。

僕がブログを書き続けられない6つの理由
2012年02月05日(Sun)
2年近くこのブログを放置してきました。以前は「文章力向上のために月に10本記事を書く」ということをモチベーションに更新を続けていましたが、目標達成した瞬間、あっけないほど簡単にやめてしまいました。何故僕はブログを続けられないのか。ブログを続けて書くためには何が必要なのか考えてみました。

(1)まず、文章を書くのが苦ではない、むしろ好きでなくてはなりません。更新しなければならないという目標を課しでもしないかぎり、これを満たしていなければ続かないでしょう。「書くのがめんどくさい」というのもこの理由に大きく起因するものだと思います。本質的に文章を書くことに快楽を覚える人間でなければいけません。書くうちに徐々に好きになっていくというパターンもあるでしょうが、僕はそうではありませんでした。

(2)つぎに、何か主張したいことを持つ必要があります。事象やニュースに対して自分の意見を明確にする。議論が好きな人や政治に興味のある人ならば、大抵主義主張があります。とくに喜怒哀楽の大きい人は、その感情を文章にして世に放たずにはいられないことは多々あるでしょう。僕は何かを主張したいと思うことはあまりありません。そのとき感じたことを自分の中で反芻し、腑に落ちればそれで良いのです。たとえそれが解消しがたいものだとしても、それを外に出したいとまで大きくなることは稀です。

(3)そして、大きな要素を占めるのが、自分を知ってほしいという欲求です。自分はこんなことを考えてる、今日こんなことがあった、こんなものを食べた。今の自分を人に知ってほしい。ありのままの自分に対するリアクションが他者からあれば、それを動機にさらなる自分の状況をアップデートする。これは人間の本能的な欲求のひとつかもしれません(きっと心理学の教科書にでも載っているでしょう)。ただ、個人的には苦手なんですよね、自己の現状を他人にアピールすること。できればステルスでいたい。もちろん自己表現欲求がないわけではありませんが、優先順位としては低いので更新のモチベーションほどにはなりません。

(4)人を集めたいというのも大きな理由のひとつでしょう。自分のブログに人を集めて有名になりたい、大多数から評価されたい、さらにはビジネスや金儲けにまで発展させたい。この時代だからこそできる魅力的な展開です。しかし、成功するためには、世に出る戦略を立てる立案力と実行する行動力、原動となる大きな野心がなくてはなりません。僕には足りてないですね、そこまでの欲望...。

(5)何かを忘れないために記録したい、という理由もあるはずです。本を読んだ、映画を見た、アイデアを思いついた、なんでも良いのですが、そのとき自分が思ったことを忘れないためにログをつける。そして、何かの拍子に見返す。以前僕がブログを更新していた大きな理由はこれです。しかし、なんだか最近は「忘れるぐらいなら重要なことじゃないんじゃないか」と思うようになり、まとめる時間を惜しむようになってしまいました。また、ブログにまとめておくぐらいなら簡単に文節単位でEVERNOTEなどにまとめておくほうが効率的だと感じてしまい、更新の理由を完全に失いました。

(6)作品としてきちんとしたものを上げたいという意識もあるでしょうか。レビューや意見をしっかりまとめておくと、あとで見返してもそれなりに見られますし、なにより作品を作ったという満足感があります。ブラッシュアップによって多少なりとも洗練されていく文章を追うことは快感でもあります。しかし、逆にゴミみたいな文章を上げることは恥ずべきことだというハードルによって推敲を繰り返すあまり、なんだか気楽さを失ってしまって記事を上げられないことも多々あります。妥協できないと、ちっとも更新回数は増えていきません。

さて、以上がざっと思いついた理由ですが、他にも考えれば思いつくことでしょう。しかし僕という人間にフォーカスするのであれば、今回あげた6つの理由さえねじ伏せることができれば幸せが待っている気がします。要は、

(1)俺って文章書くの得意なんじゃね!?というか好き過ぎるわ!
(2)マジ世の中に物申したいことだらけだわ!いい加減にしろ、世界!
(3)俺を見てくれ!そして知ってくれ!興味をもて!リアクションしろ!
(4)有名になってガッポガッポ、ウハウハになりてー!注目されること気持ちいー!
(5)思ったことブログに全部つければ、俺は完全な人間になれる!何も漏らさず忘れない人間なんてチートだろ!
(6)こんな作品生み出せるなんて俺って天才じゃね!?水嶋ヒロも真っ青だわ!

というマインドコントロールをかければ、ホットなライター魂を定常的に継続させることができ、僕の分身であるブログは以前のような成長を続けていくことができるでしょう。記事によっては、どこからかやってきたユーザによって評価され、ネット上の知らないところで人の目に触れ続けるというすばらしい体験に発展することがないとも言えません。

多くの人に評価される人間でないちっぽけな自分を次のステージに押し上げてくれる可能性がブログの更新には隠されています。それは個人がウェブという土台を踏み台にして世界に羽ばたけるようになった現代に生きる身として、震えるほど神に感謝して事態を噛み締める必要があることです。人類史上最も成り上がりが容易になっていることを深く理解しなければなりません。

そんなスピリチュアルな理想論で自らを奮い立たせ、ヤケクソかつ盲目的、狂信的にならなくてはならないという、自分にとって存在を根本から見直さなくてはいけない辟易とする時間に、決して負けない気概を持つ。ガラにもないことを自己啓発によって続けるというイバラの道は大変なストレスですが、今後避けては通れないその道に挑む必要があるのです。
マクルーハン
2010年04月18日(Sun)
マクルーハン (ちくま学芸文庫)
4480086684

「ポップカルチャーの大祭司」と呼ばれるメディア論界のカリスマ、マクルーハンについてまとめられた本。彼の唱えた「メディアはメッセージである」「地球村(グローバルヴィレッジ)」などは有名である。

本書は、彼の著書などから彼の思想や主張のコアな部分のみを切り取って紹介している。挿絵を交えた風変わりなスタイルであるが、それゆえに難解なマクルーハンをとっつきやすくしている。140ページと決して長くはないがエッセンスがつめられており、入門書としては最適といえるだろう。

マクルーハンは過去から近代、そして当時は未来であった現代のメディアについて鋭い切り口でアプローチしている。50年前に彼の主張した地球村(グローバルヴィレッジ)はまさに今のリアルな社会を表しており、今後が彼の主張の延長線上にあることを期待させる。

感覚で未来を予測するのが苦手な人は、知識として理論を頭に入れておくことによって予測を立てるというアプローチが必要になる。知識で攻めていこうと考えている人は、是非とも本書でマクルーハンに触れてみるべきだと思う。彼のクリティカルな思想は、現代から未来を論じる際に必要不可欠である。
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